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・この小ネタは4巻の64ページに大きく拠っていますので、ご注意ください。

「もう一つのマラソン大会」

マラソン大会の真っ最中ながら、私は橋の上でぼうっと佇んでいた。
欄干にもたれ掛かる私の目に映るのは、何の変哲も無い小さな川。
もう5分ぐらいこうしているでしょうか。
既に何人ものランナーが後ろを通り過ぎていきました。
本当は私も立ち止まっていないで真面目に走るべきなのでしょう。
それでもあの人が来るまでは、ここを動くつもりはありません。
そう、私はあの人をここで待っている。
改めてそう誓いながら、私は小さく呟いた。

――遅いなあ、犬神さん。



そもそも私が足を止めたのは、川沿いの道を走っている時に
左手を流れる水の中で何かが動いたような気がしたからでした。
念のため言っておきますが、私は運動が嫌いというわけではありません。
むしろ体を動かすのは割と好きな方で、今日もそれまではしっかり走っていました。
しかしそれ以上に、水中に潜むかもしれない神秘には私を惹きつけるものがありました。

思い起こせば以前にも都会に突然アザラシが現れるというニュースがありましたし、
学校の池にすら天然記念物のオオサンショウウオが生息しているのです。
この町にもシバテンぐらいならいても不思議ではないでしょう。
もしかしたら、この私にも何か新発見ができるかもしれません。
三面記事なるものに一遍載ってみたいと思っていた私にとって、これは大きなチャンスです。
私は迷わず橋のところへと走り寄り、水面をぐーっと眺めてみました。
ここからなら川のずっと先まで視界に納めることができます。
川面の異変を見逃すまいと決心し、私はしばらくこの場に留まることにしました。

もちろん観察をずっと続けることができないのは判っています。
マラソン大会を放棄するわけには行きませんから。
そこで私は、何かしら時間の制約を自分に課すことにしました。
とはいっても腕時計もつけていないし、どうしたら…。
その時、うまく良い考えが思い浮かびました。
タイムリミットは、犬神さんがここを通るまでにしましょう。

犬神さんもスポーツは得意なのですが、あの人の性格を考えると
あまり本気で走ってはいないでしょう。
そして、こう見えて私も足は速いんです。
したがって私は犬神さんをちょっとリードしているというわけです。

そうして、私はその分を待ち時間に当てることに決めました。

犬神つるぎさん。

銀髪とメガネがよく似合っていて、意志が強くて、いつも冷静でいてくれる。
それでいて、優しくて、時々かわいい一面を見せてくれる。
でもそれは、誰に対してもおんなじ。
 犬神さんは――。
……。
…。


「どうかしたのか?」
頭の中で思い浮かべていた、正にその人の声が聞こえてきた。
「え…あ…」
急いで振り返れば、そこには現実の犬神さん。
いけない、いけない。
ぼうっとしているうちに夢想の世界に迷い込んでしまっていたようです。


―あれ?

何だかいつもの犬神さんと雰囲気が違います。
単なる気のせいでしょうか?
でも確実に、普段よりも男らしいような…。
いつもの冷静さとはちょっと違って―
今日は目に力強さを感じる…。

目―?
「あーメガネが!」
そうだ、今日はマラソンだからメガネを掛けていないんだ。
ようやく謎が解けて嬉しくなった私は、思わずポンと手を叩いていました。


素顔の犬神さんを見るのはこれが初めてです。
今までメガネは人の魅力を高めるものだと信じてきましたが、
これは考えを少し改めなければいけないかもしれません。
そう思ってしまうほど、今の犬神さんの姿には普段と異なる魅力がありました。
(もちろんメガネを掛けた犬神さんも、とても素敵ですよ)

「川に…何かいるのか?」
落ち着いた口調で私に尋ねる犬神さん。
この特別な状況でも、その様子はいつもと全くおんなじ。
もちろんそれは当たり前のことです。
だから私は、やはり普段通りに振る舞い、普段通りに答えます。
「いえ…」

あれ、何でこうしているのでしたっけ。
それは、確か…。

"犬神さんが私のところへ来るまでの時間をつぶすため"

 ううん、それは違います。
    いや、違わないけど…。
でもどちらにしても、そんなことを言うことはできません。
私は記憶を辿って最初に考えていたことを思い出し、できるだけ明るい表情で答えました。
「第一発見者になりたいと思いまして」

私は気持ちの揺れが顔に表れない自分をありがたくも感じ、
またそれと同時に恨めしくも思いました。


「そうか…がんばってくれ」
私のちょっとした願望を聞いた犬神さんは、そう言って私を励ましてくれます。
…嬉しい。
嬉しい嬉しい嬉しい!

もう今となっては、マラソン大会も第一発見者になることも、
それどころか他の全てのことは、私にとってどうでも良いことでした。
犬神さんと話したこの短い間に、私は幸せを感じることができたのだから。

私の気持ちは自然に溢れ出し、もう自分でも抑えることができません。
気がついたら私は、こんなことを犬神さんに頼んでいました。

「あの―よろしければ、一緒に第一発見者になりませんか?」

ああ、何て変わったお願いなのだろう。
自分でも思わずくすっと笑ってしまうぐらいです。
でも仕方がありません、これは私の本心なのです。


私のこの奇妙な頼みを聞いた犬神さんは、やはり困惑した様子でした。
『何だかいつもいつも困らせちゃっているなあ…』
『それにしても、困り顔でメガネも掛けていない犬神さん…レアですね』
そして犬神さんは少しの逡巡の後、逆に私に提案をしてくれました。

「なあ、ゴールまで私と一緒に走らないか」

え。
えぇっ?
こんなことを犬神さんの方から言われるとは、考えてもみませんでした。
考えてもみませんでしたが、私の返答は既に決まっています。
「はい。私で良ければ、喜んで…」
選択肢は他にありませんでした。



私は今、再び桃月町の街路を走っています。
しかしさっきまでと違って、隣には犬神さんが私と並んでいます。
どうして犬神さんは私と一緒に走ろうと言ったのか。
それを伺い知ることはできません。
ただ確実に言えるのは、私と犬神さんが二人で一緒に走っているという事実だけ。
そしてそれが、この瞬間に大事にしなければならない唯一のことなのです。


ゴールがあと数10mのところまで近づいてきました。
私はこれまで一緒に走ってきた犬神さんをちらっと横目で見てから、
犬神さんよりも速いスピードで走り始めました。
ラストスパートです。
「あっ、おい!?」
後ろで犬神さんが私に呼びかけますが、それには構わずにゴールを目指します。
今はマラソン大会中ですよ、犬神さん。

犬神さんが少しずつ遠くへ、ゴールが少しずつ近くへと動いていきます。
そして遂に私は10kmを走り終え、ゴールへと到達しました。
ちょっと遅れて、犬神さんもゲートをくぐります。

私は犬神さんの所へ駆け寄って、真っ先にこう言いました。
「私の勝ちですね」

「ああ、そうだな」
私の勝手な勝利宣言を、犬神さんは笑って受け入れてくれました。


こうして、私のマラソン大会は終了したのでした。

(終)


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